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不徹寺について

©有本浩二
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不徹寺

創建:元禄元年(1688)

開山:盤珪国師

開基:嶺雲貞閑尼禅師(田ステ)

庵号:盤珪国師の命名によるもので出典は禅語の「閑不徹」

田ステは柏原(丹波市)に生まれる幼少から俳句に秀で、6歳の時「雪の朝二の字ニの字の下駄の跡」を詠み、のちに元禄四俳女に列せられる。夫の死後、盤珪国師の弟子となる。元禄10年(1698年)没、墓塔は龍門寺にある。中興の祖である松壽院殿貞岳義栄尼禅師は老中並の酒井忠挙娘、丸亀藩主京極高豊夫人、当庵保持に尽力、中興の祖と称せられる。

坐禅堂は元禄13年(1700年)に建てられたもので、国内での尼僧修行道場としての現存する禅堂としては最も古いものである。

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田ステ

丹波国氷上郡柏原の田助右衛門季繁の娘として生まれる。

田家は柏原藩主・織田家の代官を務めた家筋。3歳で母と死別後19歳で継母の連れ子・又左衛門季成と結婚し、五男一女をもうけた。

6歳にして「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」と詠んだと伝えられ、幼い頃から文学的素養に恵まれたとされる。のちには夫と共に北村季吟(きたむらきぎん)・湖春(こしゅん)・宮川正由(みやがわしょうゆう)に

国学・和歌・俳諧を学ぶ。その才能が認められて数々の俳諧集に入集し、浮世絵の題材などにもなった。

42歳の時に夫に先立たれ、7回忌を過ぎて柏原の浄土宗西楽寺にて落飾し妙融尼(みょうゆうに)となる。

のちには「不生禅」を唱えた臨済宗の龍門寺の盤珪禅師に深く帰依し、転派。貞閑尼と改名して網干(現姫路市)に不生庵を開いた。

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松壽院

5代前橋藩主・酒井忠挙の娘・松子。

貞享2年(1685年)、京極高豊の継室となる。

寛文8年(1668)生まれ、享保8年(1723年)8月9日没。

 

不徹庵に伝わる「松寿院様記録」によると、享保2年(1717年)に庵地が手狭になったとして隣屋敷を求めたが、それを聞いた松壽院が庵地の年貢を免除するように取り計らい、祝いとして飛梅の木で作った天神像を与えたと伝えられている。

その後も折に触れて金子や掛け軸などの寄進を行い、不徹庵の存続を支えた。以来、不徹庵の中興の祖として丁重に祀られ、不徹庵の山号「松壽山」も松寿院に因んだものである。盤珪禅師の開いた江戸の光林寺に葬られた。

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引用元:特別展「女たちのひょうごー千姫から緒方八重までー」図録

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